『サウルの息子』ネメシュ・ラースロー監督インタビュー

アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、38歳の若き才能が自作を語った

#ネメシュ・ラースロー

描いたのは、肉体的でなく精神が破壊されていく極限状態の人々

第88回アカデミー賞で外国語映画賞にノミネートされた『サウルの息子』は、カンヌ国際映画祭でもグランプリを受賞した作品だ。アウシュヴィッツ収容所を舞台に、殺された息子をなんとかユダヤ教の教義にのっとって手厚く葬ろうとする主人公・サウルの姿を描き、極限状態における人間の尊厳について訴える。

監督したのは、『ニーチェの馬』で知られる名匠タル・ベーラの助監督をつとめたネメシュ・ラースロー。世界中から注目と集める38歳の若き逸材が、自作について語った。

──本作の主人公は、同胞であるユダヤ人の死体処理に従事する特殊部隊・ゾンダーコマンドとしてアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所で働いている男性です。ゾンダーコマンドを取り上げたのはなぜですか?

ネメシュ・ラースロー監督

監督:文明社会が自信を破壊に導いてしまうそのプロセス、悲劇をどれだけ伝えきれるか。極限状態の人間をどれだけ描き、生々しさが伝えられるか。今までのホロコースト作品は伝えきれていない。
人類の自殺願望などの性質は忘れられがちだが、忘れてはいけない。どこか心の中で思い続け危惧しなければならない。その世界を危うさを体感をするための案内役がゾンダーコマンドだが、彼らはあまり認知されていない、地獄における生命体として存在が許された人で、肉体的でなく、精神が破壊されていく極限状態の人々。そんな彼らがどう生きていたかを描くことにより、その世界で自分には何が出来るのか、それを伝えたかった。

──サウルがゾンダーコマンドになる瞬間を描かなかった理由は?

監督:本作では、ゾンダーコマンドのある1日を描いただけ。鍵穴から覗き見るイメージで撮った。全てを描き切るとメッセージ性が弱くなる。全てを伝えきれる時間も手段もない。見た人もきっと消化しきれない。
1日に焦点を当てることで、あえて感情を深く伝えるためにそうした。

映画作りは、学校での勉強より、いい師匠に巡り会いいかに吸収するかが大事
ネメシュ・ラースロー監督

──主演のルーリグ・ゲーザは詩人ですが、プロの役者ではない彼への演出はどのようにされたのでしょうか?

監督:完全に素人というよりも役者をかじってた人で、経験もあり、サウルのイメージに合っていた。彼は私生活でも自分の考えに忠実、強固な意志があるから、サウルのイメージだった。基本的には内面的にサウルの役柄を理解していたからあまり細かい指示はいらなかった。

──その他のキャスティングについてはいかがでしたか?

監督:かなり大変だった。表情や体格、収容所にいても違和感がない人を意識して集めた。小さな町の劇団の役者から色々な国の俳優まで、何千人の人々のなかから1年半かけて配役を決めていった。

──映画監督になった理由は? また、名匠タルベーラ監督の下で助監督をされていましたが、彼から学んだことは?

監督:家族にも映画に関わっている人がいたので、映画の世界は身近だった。子どもの頃からセットなどを見てワクワクしていた。常に映画には興味を持っていた。

『サウルの息子』
(C)2015 Laokoon Filmgroup

タルベーラ監督の助監督になったのは偶然で、運が良かった。助監督をやることにより多くのことを吸収できた。学校での勉強よりも、いい師匠に巡り会い、いかに吸収するかが映画人には大事なのではないか。例えば、カットに関しては、必ずしも映画のフィルムを物理的にカットしなくても、映像の感情部分をカットするというのがタルベーラ監督の技法で、見えるカットではなく感じるカットを重要視している。

──どれくらの予算をかけたのですか? また、国からの援助はあったのでしょうか?

監督:予算はあまり大きなものではない。150万ユーロ(約2億円)で、初監督作にしては十分かもしれないが、平均的には大きくはない。
元々あまり予算はかからないだろうと見積もっていた、こんな撮り方だから詳細を描く必要がないので安くすんだ。どれだけ作りこんでも実際の収容所は再現はできないと思ったし、観客の頭で想像して補完してほしかった。死体の一部分を見せるだけで観客は想像できる。だからこそ、逆にリアルな作品に仕上がった。
ハンガリーからは有望な作品への助成、国立映画基金がもらえた。脚本をもとに、年間15本ほど選ばれる。どれだけハンガリー映画の未来につながる基金かはわからないが、私自身は助かった。

ネメシュ・ラースロー
ネメシュ・ラースロー
Nemes Laszlo

1977年ハンガリー、ブダペスト生まれ。舞台演出家と教授であった両親は共産主義政権下では反体制派で、子ども時代と青年時代をフランスの首都パリで過ごす。パリ政治学院、ついでパリ第3大学で映画を学び、2003年、26歳のときにブダペストに戻り名匠タル・ベーラ監督の助監督に。その後、3本の短編映画を監督。本作の実現には5年の歳月をかけ、カンヌ映画祭グランプリを受賞。ゴールデン・グローブ賞外国語映画賞受賞も受賞したほか、アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされている。