『母という名の女』ミシェル・フランコ監督インタビュー

毒親全開! 母性神話を打ち砕く問題作を語る

#ミシェル・フランコ

現代社会では、良い母親であることを女性に押し付けている

自己犠牲も厭わない献身と愛に満ちた母という存在。そんな“母性神話”を打ち砕く作品『母という名の女』が6月16日より公開される。カンヌ国際映画祭「ある視点」部門でグランプリを受賞した『父の秘密』、同映画祭の脚本賞を受賞した『或る終焉』などで高く評価されているミシェル・フランコ監督の最新作だ。

メキシコの海辺に建つ別荘に暮らす2人の姉妹とその母の姿を通じ、人間の持つ怖ろしさを描き出し、家族への幻想をも吹き飛ばす本作について、フランコ監督に語ってもらった。

──年若い妹が妊娠し、疎遠だった母親がやってくるところから始まります。予想もしない展開に驚きますが、本作のインスピレーションはどこから来たのでしょうか?

『母という名の女』撮影中のミシェル・フランコ監督(左)とエマ・スアレス(右)

監督:数年前、私はある妊娠したティーンエイジの女の子を見かけました。それはメキシコではとても一般的な風景です。ただ、その女の子に私は強い興味を持ち、どのようにして彼女が自分自身をその状況に陥らせたのか、彼女の赤ん坊に何が起きるのか、彼女自身には……。そんなことを考えました。彼女は満たされているようにも苦悩しているようにも見え、未来への希望に溢れていながら、同時に不安に押しつぶされそうになっている……。あの幼い妊婦が見せたそんな心のグラデーションが、この物語の起源です。
 加えて、私は非常に多くの男女が彼らの子どもたちとの係わり合いの中で、いつの間にか互いに対抗心を抱いてしまうという点に心魅かれています。もう自分たちが20歳だった時代はとっくに過ぎたと言うのに、それが受け入れられない。家庭内のパワーバランスが移り変わっていく過程でのそんな拒否反応が、混沌を引き起こすのです。これら2つの要素から、この映画は生まれました。

──これまでの作品と同様、衝撃的なラストシーンですが、観客を驚かせるのは好きですか?

監督:好きです。ただ、重要なのはサプライズの為の驚きにならないことです。観客には驚きと同時に「あぁ、なるほど」と腑に落ちてもらえるものでなくてはなりません。心理的な部分が描けているからこそ成立する、だけどサプライズとして立ち現れる時には思わず驚いてしまうような、そういうものでなければいけないと意識しています。自分が観客の立場でも、自分の予想をいい意味で裏切ってくれるようなサプライズが好きです。

『母という名の女』撮影中のミシェル・フランコ監督

──“毒親”の顔を露わにしていく母親・アブリルをペドロ・アルモドバル監督の『ジュリエッタ』でゴヤ賞主演女優賞を受賞したエマ・スアレスが演じています。起用の理由は?

監督:外国から来たという設定にしたくて、スペイン人の母親というキャラクターを探していたときに『ジュリエッタ』を見て、「あ! アブリルにいいかも!」と思いつきました。エマは知性と感性の両方で演技をしています。つまり、本能的に反応するだけでなく、とても理性的に物事を捉えているのです。

──母・アブリルの背景については設定されているのでしょうか?

監督:アブリルの設定はつくっていません。唯一決めていたのが、スペインから来た外国人であるということのみ。ただそれも、外からいきなりやって来る感じや不在感が強められるからという理由でしかありません。時々役者から、これはどういうこと? この背景は?と聞かれるけど、それは自分で考えて決めてくほしい、逆にその考えを教えてほしいといつも答えています。すでに脚本に2年以上かけているから、ここからの作品作りは君たちの意見を反映させて一緒に作っていきたい、と話します。私は監督というものは独裁者であるべきではないと考えています。
 私はアブリルという存在を善悪で裁くような視点では描いていません。現代社会では良い母親であることをプレッシャーとして女性に押し付けていると思います。良き母であれ、良質な仕事を持て、子供の為に何かあれば常に近くにいろ、夫の為に常に官能的であれ、家族の為に常に美しく装え、これらすべてを求められているのが現代女性で、多くのプレッシャーをかけられ失敗してしまうことも当然あると思います。しかし一度失敗した女性に対して、現代社会はすぐにレッテルを貼ってしまう。それを集約した結果がアブリルのような女性です。ある意味、現代社会を体現しているキャラクターなのです。

──映画作りに対するポリシーを教えてください。

監督:ひとつのテーマがあったとしたら、それに真っ向から対抗するような要素も入れ、同時に複数のものを作品に入れたいとおもっています。単純なストーリーではなく、それ以上のものになるよう目指しています。私は今のところキャラクターの心理を掘り下げていくような映画を作っているので、そういった物語には単純なストーリーは合わないのではないかとも思っています。
 私が好きな映画作家は探求心を失わず、失敗を恐れず、そして形式に決して頼ることなく、安全圏で作品作りすることを良しとしない、そんな人たちです。私も常に限界を超えていき、監督という立場からも予測不能な作品を作っていきたいし、誠実でありたいと思っています。多くの映画監督が、例えば一度うまくいった設定を、これだったら観客に響くから、分かりやすいからという理由で繰り返し使うことがあるけれども、それは怠けだと思います。もちろん観客に響く作品にはしたい、繋がりたいとは思っているけれど、すごく誠実なやり方で繋がりたいと思っています。観客のことをリスペクトしているということがモットーかもしれません。リスペクトしているからこそ挑戦した作品を作りたいと思えるるし、型にはまるような作り方をしてしまったらもう映画は作らないというくらいの覚悟で作っています。

──製作総指揮を、『或る終焉』に主演したティム・ロスが務めていますね。次作も一緒に取り組むそうですが、どんな作品になるのですか?

監督:『或る終焉』が完成して以来、ティム・ロスと私はもう1本一緒に撮ろうと話していました。私たちはそれをとても楽しみにしています。今のところ、私たちは一緒に引き籠って執筆にあたっている段階です。ティムともう一度仕事ができるというのは限りない喜びです。まだ執筆中で詳しくは言えないけれど、これまでよりもより多くの視点が描かれ、物語の時間の経過も一律ではなく、あちこちに飛ぶような構造で、私たちの国の社会における格差といったものを描いたようなものにしたいと思っています。野心作なので期待していてください。

ミシェル・フランコ
ミシェル・フランコ
Michel Franco

1979年メキシコシティ生まれ。脚本家、監督、プロデューサーとして活躍。『父の秘密』(12年)で第65回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリを受賞。『或る終焉』(15年)で第68回カンヌ国際映画祭コンペティション部門脚本賞を受賞。プロデュース作として、第65回ベルリン国際映画祭パノラマ部門で初監督作品賞を受賞したガブリエル・リプスタイン監督の『600マイルズ』(15年)、第72回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞したロレンソ・ビガス監督の『彼方から』(15年)などがある。