原爆についてただ一人言及したキリアン・マーフィー、『オッペンハイマー』主演までの道程
アイルランド人では初のアカデミー賞主演男優賞を受賞
【この俳優に注目】アカデミー賞で最多7部門を受賞した『オッペンハイマー』。太平洋戦争末期、広島と長崎に落とされた原子爆弾を開発した物理学者、J・ロバート・オッペンハイマーの頭脳に入り込むようなタッチで天才学者の苦悩と葛藤に迫る大作は昨夏以降に世界各地で記録的なヒットとなったが、世界で唯一の被爆国である日本での公開はアカデミー賞発表後の3月29日からとなった。
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オスカーのセレモニーで同作に関わる受賞スピーチは7回行われたが、原子爆弾について言及した受賞者はただ1人、オッペンハイマーその人を演じて主演男優賞を受賞したキリアン・マーフィーだ。
マーフィーは1976年、アイルランドの教育省に勤める父とフランス語教師の間に生まれた。地元コークの大学に進み、法律を学んでいた20歳の時に舞台版「時計じかけのオレンジ」を見て演技に興味を持った彼は両親の反対を押し切って大学を辞め、演技の道へと進んだ。
コークの劇団に参加し、舞台中心に活動していたマーフィーは自身の舞台主演作『Disco Pigs(原題)』(2001年)の映画化でも主演を務め、2002年にダニー・ボイル監督の『28日後…』に主演し、一躍その名を知られるようになった。凶暴なウイルスの感染拡大でゴーストタウンと化したロンドンで、昏睡状態から覚醒した青年を描くホラーで、マーフィーは極限状態に放り込まれた主人公の困惑、仲間を得て生き残るために逞しく成長していく姿をリアルに演じた。
先述のアカデミー賞でアイルランド人として初めて主演男優賞に輝いたマーフィーはスピーチで「私は誇り高きアイルランド人として、今夜この場に立っています」と語った。今もアイルランドに拠点を持つ彼の母国への想いは強く、アイルランドの近代史をテーマにした出演作も多い。
『プルートで朝食を』ではトランスジェンダー女性を熱演
2005年の主演作でゴールデン・グローブ賞主演男優賞を受賞した『プルートで朝食を』は、アイルランドの名匠、ニール・ジョーダン監督作で、紛争が続いていた1970年代に生きるトランスジェンダーの女性を演じた。
波瀾万丈な主人公の歩みと社会の持つ問題が自然にリンクする物語で、マーフィーは過酷な境遇を笑い飛ばすように自由に生きる姿の中に、主人公が内に抱える哀しみを滲ませた。同作には北アイルランド出身のリーアム・ニーソンやスティーヴン・レイ、マーフィーとは何度も共演している同郷のブレンダン・グリーソン、ルース・ネッガも出演している。
2006年にはケン・ローチ監督の『麦の穂をゆらす風』に主演。カンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールを受賞した同作は、1920年代のアイルランド独立戦争とアイルランド内戦を背景に、かつては祖国の独立を目指して共に戦った兄弟が敵として対立していく悲劇を描く。
マーフィーは同作のプロモーションで来日し、筆者は取材の機会に恵まれた。都内の高級ホテルの一室で、写真撮影もあるというのに普段着姿の彼は外見を飾るよりも作品について語ることに集中していた。特に熱心に話したのが、同作に出演したプロの俳優ではない人々との共演だ。演技のお約束めいたものとは無縁の彼らの反応に刺激を受けて、自分の芝居も変化していった経験を語る興奮気味の表情は今も鮮明に目に焼きついている。
クリストファー・ノーラン監督と出会い、常連俳優に
この2作とほぼ同時期に、マーフィーはクリストファー・ノーラン監督と出会った。もともとノーラン作品のファンだった彼は、『バットマン ビギンズ』(2005年)でブルース・ウェイン/バットマン役のオーディションを受けて役は逃したものの、その後の2作にも登場したヴィラン、ジョナサン・クレイン/スケアクロウ役に起用された。
『ダークナイト』トリロジーの第1作である『バットマン ビギンズ』では、裏でマフィアと繋がっている精神科医で、恐怖心を引き起こす幻覚ガスを使うヴィランの薄気味悪さと狂気を演じ、彼はその後のノーラン作品に助演としてしばしば登場する1人となった。
ノーラン作品では、毎回ことごとく異なる表情を見せる。レオナルド・ディカプリオ『インセプション』(2010年)では物語のキーパーソンとなる大企業の二代目で、父との確執のトラウマを抱えた男性を演じた。冷徹さとエモーショナルな面が混然となる複雑な人物像は彼ならではのものだ。
同作で共演した渡辺謙が2011年、東日本大震災の後に立ち上げた「kizuna311」という被災地にメッセージを送るサイトに、「私たちはこの困難な時期にいるあなた方のことを思っています」とアイルランド語で書いた直筆メッセージを手に動画出演している。SNSなどもやらず、私生活はほとんど明かさないが、こうした機会に表に出ることは厭わず、スターであると同時にアイルランドの一男性という個人として心を寄せる心情が伝わってきた。
『ダンケルク』(2017年)ではドイツ軍の攻撃で転覆した船で生き残ったイギリス兵役。民間のプレジャーボートに救出されるも、同船がダンケルクを目指していると知るとパニック状態で進路変更を迫る。死の恐怖を経験し、心が壊れかけたその姿は強烈だ。
青い瞳が印象的な美貌で変幻自在に演じる
戦争など極限を経験したことによるトラウマやサバイバルも、マーフィーがよく演じるテーマだ。2013年から2022年まで全6シーズン続いた犯罪ドラマ『ピーキー・ブラインダーズ』(Netflixで配信中)で演じたバーミンガムのギャング組織のリーダー、トーマス・シェルビーは第一次世界大戦のPTSDに苦しんでいるという設定であり、2020年に出演した『クワイエット・プレイス 破られた沈黙』では凶暴な地球外生命体が跋扈する世界で、家族を亡くして1人生き残った男を演じている。
澄んだ青い瞳と高い頬骨の美貌を変形させなくても、純朴な青年、冷酷なサイコパスから卑怯者まで変幻自在。各作品の世界に生きている誰か、になれる俳優だ。
キリアン・マーフィーは縁を大切にする人という印象も強い。ノーラン作品を長年手がけた撮影監督のウォーリー・フィスターが初監督作『トランセンデンス』(2014年)への出演を打診すると快諾し、FBI捜査官役で登場した。『28日後…』のボイル監督とは2007年の『サンシャイン2057』でも組み、真田広之やミシェル・ヨーとも共演している。
ノーラン監督作で初めて主演を務めた『オッペンハイマー』
そして20年近いノーラン監督との縁が結実したのが『オッペンハイマー』だ。6度目のコラボレーションにして主演は今回が初となるが、それは原子爆弾という世界を一変させた核兵器を世に送り出した人物を演じるという重責にもなった。
『オッペンハイマー』について、以前から劇中で広島と長崎の被害への言及の少なさが問題視されている。これに関しては個々の見解に違いが生じるのは不可避だが、あくまでもオッペンハイマーその人を描くことに徹した監督の決断は間違ってはいないと思う。
オッペンハイマーを演じるマーフィーの表情に心動かされる
被害者やマイノリティが登場する物語では、“彼らの問題を他人事としてきた人々に考えさせる”という大義名分を掲げて、弱い立場にいる人々をエンターテインメントとして消費するだけに終わる場合が少なくない。『オッペンハイマー』は被害の状況を直接映さないが、実験で爆弾の威力を目の当たりにし、投下後の惨状を想像するオッペンハイマー=マーフィーがその表情で伝える。
それだけでは弱いかもしれない。だが、その表情に心を動かされ、もっと知らなければと思った人が、フィクションではない広島や長崎の現実に触れようとするきっかけになるのではないか。そんな強い求心力をキリアン・マーフィーは持っている。(文:冨永由紀/映画ライター)
・フローレンス・ピューと共演シーンほか『オッペンハイマー』その他の場面写真はこちら
『オッペンハイマー』は、2024年3月29日より全国公開中、IMAX(R)劇場 全国50館 /Dolby Cinema(R)/35mmフィルム版 同時公開
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