『さよなら、退屈なレオニー』セバスチャン・ピロット監督インタビュー

スマッシュヒットの青春映画、その裏側に隠された深い意図とは…?

#セバスチャン・ピロット

これは青春映画ではありません

高校卒業を間近に控えた17歳の少女、レオニー。特にやりたいこともなく、日々の退屈や周囲のすべてにイラついている彼女の一夏の変化を描いた『さよなら、退屈なレオニー』が、6月15日より公開される。

昨年、カナダでスマッシュヒットを記録した本作について、セバスチャン・ピロット監督に話を聞いた。

──『さよなら、退屈なレオニー』を作ろうと思ったきっかけは何ですか? あなたの前2作『Le Vendeur(セールスマン)』、『Le Démantalement(破壊、解体)』とはまるで違う印象を持ちました。それは狙いですか?

監督:前2作よりも見やすい作品を作ろうと思ったのは確かです。それで、この作品には、大衆的な映画の形、少なくともそういう見かけを与えようと思いました。叙情的な要素はなくし、シンプルでダイレクトなスタイルで作りたかった。各カットがまっすぐに目的へと向かうようにしたかったのです。
 映画を文学作品に例えるなら、簡素で、短く、よけいな修飾語はないけれど、メタファーやアレゴリーを恐れない文章でできた小説だと思います。バンド・デシネや歌だとしても同じです。最初から言っていることですが「ポピュラーソングのように響くように考案した」のです。映画は消えたり現れたりする一つの小さな歌、心に付きまとうようで逃げていく音楽のようであるべきです。当初は大きく洗練された動きを持った動きのある映画を思い描いていましたが、結局は違ったアプローチへと方向転換しました。映画に“そぞろ歩き”の要素を与えるというアイデアはそのままに、もっと正面からの演出を増やしたのです。
 つまり、私の他の作品との一番大きな違いは、トーンだと思います。『さよなら、退屈なレオニー』はコメディドラマのトーンを持っています。笑顔で作った映画です。もしこの映画が(以前の作品と)違うように見えても、他の作品と同様に、私自身のヒューマンコメディーに根付いています。

──物語の核となるのは、主人公レオニーと、年上のギター講師スティーブですが、社会政治的な背景が重要な要素になっていますね。この映画の2つの側面、個人の親密さと社会性について話してください。

撮影中のセバスチャン・ピロット監督

監督:レオニーは2つの正反対の父親像の間に位置しています。彼女の個人的な状況は社会政治的な状況にも見えるでしょう。
 彼女は、うるさくてポピュリスト、言わば偽の先唱者であり、影響力のある義父にまとわりつかれています。彼はラジオの王様で、旬の男です。一方で、彼女が愛する理想主義者の父がいますが、彼は不在です。いなくなっ
 レオニーのセリフですが「矛盾だらけの家族」です。そして、こういう状況において、レオニーは、2人の父親の間に3人目の父親的な存在、“代用(の父)”というべき存在をスティーヴに見出します。彼は時の外に位置する人物で、3つめの道筋です。 レオニーがある時、この3人の父親的な存在を混同したり、彼らを拒否するのが面白いのではと思いました。

──この映画は遠回しな印象を与えますね。そして、一般的な青春映画とは違いますよね。

監督:これは青春映画ではありません。これは私にははっきりとしています。言うなら『Le Vendeur』が車のセールスマンの映画、『Le Démantèlement』は酪農家もしくは羊についての映画というのと変わりません。
 曖昧さ、青春映画の見かけを利用したことは事実です。“カミング・オブ・エイジ”的な側面も見えるでしょうが、この面からのみこの映画を見るのは間違いだと思います。例えば、今の若者の自然体のポートレイト、今の若者の心理を撮りたかったわけではありません。もっと普遍的なものを撮りたかったのです。私の他作品と同様に、私が狙ったのは、このストーリーを通して、今日の(映画の舞台となるカナダの)ケベックのポートレイトを撮ること。時代のポートレートです。遠回しにはしました。アイデア、直感、ある映像が頭に浮かび、次にそれを語るためにストーリーを構築します。これが私のやり方なのです。

──では、レオニーのストーリー以上に、何が映画の真の主題だと言えますか?

撮影中のセバスチャン・ピロット監督

監督:これは、付きまとうシニシズム(冷笑主義)とその治癒薬である、大きな意味での愛についての映画です。無知についての映画でもあるかもしれません。変だと思われるかもしれませんが、ある意味、今までの作品の中で一番政治的な映画だと思います。なぜなら世界がファシズムの新しい形へと向かっているのでは、という感情を持って作った映画だからです。時に希望の微光が灯る時、それは断続的な光であるか、ほとんどの場合目に見えません。

──原題は『La disparition des lucioles』で、「蛍はいなくなった」という意味ですね。そのせいかもしれませんが、主人公のレオニーは、何かの“消失”に対面しているような印象を受けます。

監督:私はちょっとした“世界の終わり”が好きなんです。不在の人、不在そのものが好きです。この映画の場合、“消失”で私が呼び起こすのは、“消失するもの”はもう見られないものである、という考えです。もう私たちの前には存在しない。見られないのです。それが私たちの視界から離れたのか、私たち自身がそれから離れたのか……。英語でいう“vanishing point(消失点)”です。
“ホタル”をタイトルに使った理由ですが、昔の映画館で小さな灯りを持って客を席に案内する若い女性のことを、イタリアでは“ホタル”と読んでいました。ある意味、レオニーのような人です。
 タイトルの“蛍はいなくなった”は、新しいファシズムについて語るために、イタリアで突如としていなくなったホタルを比喩として記した(イタリアの映画監督)ピエル・パオロ・パゾリーニから影響を受けました。「コリエーレ・デラ・セラ」紙に掲載された「ホタルの記事」の中にあります。パゾリーニによれば、夜に光る小さな光“la luce”はプロジェクターや、娯楽施設の強すぎる光やスピーカーの大きな音で見えなくなったのです。微光をよく見るために照らすことはできません。光の下で、微光は消えるのです。光はある物を出現させたり、消失させたりできます。このタイトルはこの映画を見るためのキーや道筋となります。強制はしませんが……。

──レオニーとスティーヴはありそうにないカップルですが、一方でとても引かれあっていますね。

『さよなら、退屈なレオニー』
(C)CORPORATION ACPAV INC. 2018

監督:レオニーとスティーヴが予想に反して結ばれるところを見てみたい、という欲望を観客に呼び起こしたいと思っていました。この映画はこれを基盤にしています。“ありそうにないカップル”、不ぞろいで、不似合いで…これらの表現を私も(このカップル像を作るのに)使っていました。劇中の登場人物にとっても、観客にとってもあいまいな関係を作り出したかったのです。
 スティーヴは単純さ、愛です。ロマンティックな愛ではなく、もっと大きな愛です。彼は音楽でもある。この3つの概念は私にとってはこの映画の中で切り離すことができないものです。スティーヴは純粋です。彼の物事の見方はシンプルで時におめでたくもある。それにレオニーは惹かれるのです。彼には嫌みがありません。野心もほとんどない。彼は人生を冷めた目で見てはいません。批判もせず、うまくやります。この温かく率直な人生の物事の見方が、ある意味でレオニーを変えるのです。

──この映画の中で音楽は大変重要な役割を果たしています。どのような意図で音楽を使用しましたか?

監督:セルジュ・ゲンズブールはランボーについて語る時、こう言っています。「詩はその純粋たる状態においては、音楽を必要としない。それが腹の立つところだ。俺は音楽が好きだからね」(笑)。
 音楽が愛、おめでたさ、純粋さの要素を映画にもたらすようにしたかった。なので遠慮せず、“気前よく”使いたかった。不思議なことに、これは音楽に対して禁欲的であろうとする以上に難しかったです。映画に大衆的な形を与えようとしたことも、音楽の多用に繋がっていると思います。
 使用したポピュラーソングをリストにした時には驚きました。ヴォイヴォドからミシェル・リヴァール、フェリックス・ルクレールからターナー・コディ、ラッシュの「スピリット・オブ・ラジオ」からアーケイド・ファイア。トミー・ジェイムス&ザ・ションデルズの「クリムゾンとクローバー」。編集のステファン・ラフルールは映画人でもありミュージシャンでもあって、多くのアイデアをくれました。

セバスチャン・ピロット
セバスチャン・ピロット
Sébastien Pilote

カナダのケベック州生まれの映画監督、脚本家。これまで“Le vendeur”(11年)、“Le démantèlement”(13年)を監督。