『めぐりあう日』ウニー・ルコント監督インタビュー

親に捨てられた自身の体験をもとにした珠玉作

#ウニー・ルコント

捨てられた娘と実母が再会する時どうなるのか描きたかった

人生に大きな影響を及ぼす母と子の関係。韓国のソウルに生まれ、9歳の時に養女としてプランスへと移り住んだウニー・ルコント監督が『めぐりあう日』で描いたのは、30年の歳月を経てめぐり逢う母と子の姿だ。『冬の小鳥』で高い評価を得たルコント監督の2作目となる作品で、「実の親に捨てられた」という自身の体験がもとになっている。

運命の不思議、母と子の関係、生きる意味について深い問いを投げかける本作について、ルコント監督に聞いた。

──本作を企画したきっかけは?

監督:捨てられた娘と実母が再会する時どうなるのかを描きたいと思いました。前作(『冬の小鳥』)でも親に捨てられてしまった子どもを描きましたが、30年後に、捨てられた側と捨てた方の側の人生にはどのような影響があるのか、それぞれがどのように生きているのかを描こうと思ったことが本作を作ろうと思ったきっかけです。
 そして、単なる再会ではなく、最初からお互いが母と娘であるということを知らずに出会わせるということを考えました。そうすることによって映画にドラマチックな部分を加えることができます。単にエリザが自分の母を探し求めて再会しましたというのではなく、見つけあって認知し合う、お互いを認め合う映画にしたいと思いました。主人公エリザは実の母の存在にはたどり着いたのに、彼女は子どもを産んだことが無いと言いエリザの母であることを否定しているところからドラマをスタートしている訳です。

『めぐりあう日』
(C)2015 - GLORIA FILMS - PICTANOVO
2016年7月30日より公開中
──主演のセリーヌ・サレットが本当に素晴らしいです。サレットを主演に起用するに至った経緯を教えてください。

監督:彼女はフランスでは有名な、大変素晴らしい才能を持つ女優です。映画界で活躍し、力を発揮しています。サレットには今まで直接会ったことはなく、いくつかの出演作を見たことがあっただけでした。それでもやはり、彼女のビジュアル的なインパクトが大きく、スクリーンの中での存在感からエリザ役にはサレットと最初から考えていました。キャスティングのために複数の役者と会うことはぜず、彼女一本釣りでシナリオを送って読んでもらい、彼女もプロジェクトを気に入ってくれたので、会うことになりました。ですので、カメラテストなども一切なしにオファーをしたという経緯です。
 サレットにはいくつかの主演作や出演作がありますが、恐らく今までやってこなかったような役柄を今回の映画で演じてもらいました。抑えた演技で、控えめだけれども存在感が光り、ある意味、アジア的な演技が『めぐりあう日』では非常に光っていると思います。

あなたが狂おしいほどに愛されることを、私は願っている
『めぐりあう日』
2016年7月30日より公開中

──主人公は理学療法士という仕事を通じ、知らず知らずのうちに“母”の身体をマッサージしていてとても印象深かったのですが、彼女の職業を理学療法士にした理由は?

監督:理学療法ではないのですが、接骨院に患者として施術を受けたことがあります。その時、腕の中に母が子どもを抱えるように抱いて揺らして背中を楽にする(“実の母”であるアネットが主人公で娘のエリザに施術してもらうシーンにある)施術を私自身が患者として体験しました。それは、体の面と心理面に大変インパクトがあり、その光景をイメージとしてぜひ使いたいと思ったことから理学療法士という設定にしました。
 私自身が通ったのは接骨院でしたが、今回の映画では理学療法士に設定を変えています。フランスでは接骨院はあまり一般的ではないため、アネットのような人物は行かないだろうと考えたからです。患者として受けた施術のインパクトが大きかったので映画にぜひ使いたいと思ったところから始まりましたが、その職業設定を決めてから、色々な意味合いを含むことができるとわかってきました。
 主人公のエリザは、乳児の時に、生まれてから数時間で親に捨てられました。まだ言語も話さない時期に捨てられたショックを味わい、看護師や保育士など色々な人の手から手へ、腕から腕へと渡されてきたのです。そのため、人の肌に触れることがエリザという役にとっては重要だろうと考えました。そして彼女は大人になっても乳児の時に捨てられたというショックがトラウマになり、人と肌で触れ合うという言葉の要らない職業を通して、患者を施術しながらも実は自分自身を癒してトラウマを乗り越えていく、そういった象徴的な意味も含まれると思いました。

『めぐりあう日』
2016年7月30日より公開中

 個室で施術をする特殊な職業のため、とても親密な雰囲気かつ親密な場です。母親が娘の前で自らの体をさらけ出すという特殊なシチュエーションです。理学療法士には色々な施術があります。本来であれば母親が生まれた子どもを腕に抱えてケアをしますが、逆に、娘が母を、まるで母が子にケアしてあげるように腕の中で抱いて施術をしてあげることは象徴的で面白いと思いました。
 もうひとつ、理学療法士という設定にしたことで、母親が娘の前で裸体をさらして、肌と肌で触れ合う施術をしながら、もしかしたらこの2人は体の記憶でお互いのことがわかるのではないか?というサスペンスドラマ的な意味合いも含ませることができると思いました。乳児の時点でエリザは捨てられてしまったとはいえ、アネットのお腹のなかに9ヵ月はいたわけですから、それぞれがお互いの肌に触れ合って、体の記憶が呼び覚まされるのではないかと、ハラハラする部分も加味することができると思いました。

──音楽が非常に印象的で効果的に使われていますね。

監督:シナリオを書いている時から、この映画にはやはり音楽は絶対にマストだと思いました。しかも、ただのBGMではなく音楽がかなり重要な役割を果たす映画にしたかった。
 今回この映画の楽曲を担当しているのはレバノン系のイブラヒム・マーロフというアーティストです。私が、彼の「ベイルート」という曲を聴いてすっかり気に入ってしまいました。映画的に映える音楽を作る人だと思いましたし、今回は特に、映画に効果的な音楽を重視していたので彼を選んだ訳です。本作の登場人物は、それぞれが他人に言えないものを抱えて沈黙の中で生きているような人たちです。そのため、内面的なものを描きだすのが重要だと思いました。そういった内面的なものも描ける、人に寄り添っていく効果のある音楽を使いたいと思い、今回このような音楽を使っています。
 私たちは、「オーガニックミュージック」という言葉を使っていたのですが、海辺のダンケルクという街が舞台で、しかもレンガ色の家があったり、海、風、赤レンガが発する土、そして産業、工場もありましたので、エレクトロニックな音楽も加えたり……という風に、イブラヒム・マーロフとは、本作の音楽を作るにあたり何度もディスかションを重ねました。この映画にとって音楽はキーとなる本当に重要な役割でした。もしもこの映画をひとつの身体と例えるなら、音楽は血液のように不可欠なものだという話をしました。彼はそういった側面をしっかり掘り下げて曲を作ってくれました。

『めぐりあう日』
2016年7月30日より公開中
──撮影地としてダンケルクという町を選んだ理由は何ですか? 第二次世界大戦時のナチスドイツと連合軍による激戦の地で、戦争で破壊された町ですよね。

監督:この映画を撮影するまでは私自身はダンケルクの街を知らなかったのですが、第二次世界大戦で破壊され再建した街です。その時に限らず、衰退しては再建し、再建を続けて来たというこの街が持つ意味合いが象徴的で、非常に気に入りました。再建が感じられ、そして海があるというのも景色的にマストだと思っていました。人がいない浜辺、広い空、そういったものが心象風景として大変効果的だと思い、ダンケルクに決めました。
 それから、夜景のシーンに工場が出てきますが、ダンケルクは70〜80年代に重工業の産業が栄えた街です。映画の中では直接的にナレーションで語ってはいませんが、オイルショックで産業が衰退した後、80年代に移民労働者が多く来た街でもあります。社会的な背景としても感じてもらえるように、そういった意味でも効果的な街だと思いましたので撮影地に選びました。

──原題は「あなたが狂おしいほどに愛されることを、私は願っている」という意味です。ここにはどんな思いを込めたのでしょうか?

監督:「あなたが狂おしいほどに愛されることを、私は願っている」というフランス語の長いタイトルは、フランスの作家アンドレ・ブルトンの「狂気の愛」という本の最終章にある、ブルトンが自分の娘にあてて書いた手紙の最後の一行の言葉です。子どもを産むことは狂気だと考えてきたシュルレアリストのブルトンが、娘が生後8ヵ月の時に、いつか成長して16歳になる娘にあてて書いたものです。
 この言葉は、私が25歳の時に初めて読んだ時からずっと記憶に残っていた言葉です。今回この映画のシナリオを書いていた時にも思い出して、ぜひ使いたいという風に思いました。とても美しい手紙でしたし、8ヵ月の娘が16歳になった時のことを想って手紙を書いたというのも面白いと思いました。そして、この言葉には、生まれたばかりの我が子に対する幸せを願わずにはいられない親の愛情がこもっています。どんな状況であれ、少しの時間であっても長い期間であっても、男女が愛し合ったことで授かるのが子ども。そして母親が自分のお腹のなかに9ヵ月間その子を宿して産まれてくるのが子どもです。つまり、どんな出自であれ、誕生の時には誰もがその命を祝福されて生まれてくるというこの映画が意味することが、この言葉の中に含まれております。これは映画のメッセージなのかとよく聞かれますが、そのような意図はありません。
 映画の最後にエリザの父は、マルグレート系北アフリカ系のアラブ人ということが判明しますが、映画が伝えたいメッセージでもありません。
 これは、この映画自体が発する言葉だと私は捉えていて、映画の魂がこの言葉にこめられています。最後にエリザの人生にそっと寄り添い問いかける、そんな特殊なメッセージなのです。まるで、この映画が発するメロディ・歌のような存在であり、主人公のエリザが向かう方向を象徴するような言葉です。そして、この映画を作ることに力を与えてくれた、支える力になってくれた大事な言葉です。

ウニー・ルコント
ウニー・ルコント
Ounie Lecomte

1966年11月17日、韓国ソウル生まれ。9歳の時にフランスパリ郊外サン=ジェルマン=アン=レー在住の、父親が牧師をしているプロテスタントの家庭に養女として引き取られた。映画界で俳優、衣装デザインの仕事などを経て、短篇『Quand le Nord est d’Accord』などを監督。劇場映画初監督作『冬の小鳥』(09年)が第62回カンヌ国際映画祭に特別招待作品されたほか、第22回東京国際映画祭〈アジアの風部門〉で最優秀アジア映画賞を受賞。本作は監督が構想する『冬の小鳥』から続く3部作の2部にあたる。