『桜色の風が咲く』田中偉登インタビュー

目が見えず、耳も聞こえない役を演じて

#桜色の風が咲く#田中偉登

田中偉登

福島智さんの存在は「歴史の教科書の偉人を見るような感覚でした」

9歳で失明し、18歳で聴力も失いながらも勉学に打ち込み、盲ろう者として世界初の大学教員となった東京大学教授の福島智氏と、暗闇と無音の中にいる息子とのコミュニケーション手段“指点字”を編み出した母・令子さんの実話をもとにした『桜色の風が咲く』。

幼少期に視力を失いながらも、両親と兄2人の家庭で天真爛漫に育った智。成長に伴いさらなる困難が待ち受けるが、彼は諦めない。

桜色の風が咲く

自らの運命を受けとめ、乗り越えていく強さを持つ智を演じるのは、『朝が来る』(20)『ひらいて』(21)などに出演する22歳の田中偉登だ。過酷な境遇にいながら驚くほど明るく前向きであり、一方で内に苦悩と葛藤を抱える主人公の姿を誠実に、繊細に演じている。

取材現場に現れた田中は、なんと金髪姿。次の出演作で演じる役のためだという。
「もう誰か分からない感じになってしまって。映画とギャップがあり過ぎて」とちょっと申し訳なさそうに笑う彼に、令子を演じた小雪との共演、俳優という仕事について、家族との関係についてなど、多くを語ってもらった。

[動画]想像すら出来ないくらいすごい人がいるんだなと…『桜色の風が咲く』田中偉登インタビュー/前編

[動画]母への思いを吐露、反抗期の思い出も…『桜色の風が咲く』田中偉登インタビュー/後編

──田中さんが福島智さんを丁寧に大切に演じていて、感動しました。以前から福島さんのことをご存じでしたか?

田中:僕は正直知らなくて、この作品のオーディションがあると聞いて、初めて調べました。それまで障害者の方と接することがなかったですし、目が見えない感覚、耳が聞こえない感覚もあまり考えたことはなくて。それなのに大学の教授にまでなるのは想像すらもできないぐらいで、歴史の教科書の偉人を見るような感覚でした。本当にすごい人がいるんだ、どういう経緯でそうなったんだろうか、と興味がすごくありました。

──実在の人物で現在もご活躍されている方の役で、プレッシャーも大きいと思います。それでもやりたいと思われた理由はどんな点でしょうか?

田中:まず、今まで僕が演じたことがない役だったということがあります。やっぱりどんな役でも挑戦してみたい。目が見えない芝居、耳が聞こえない芝居というのは、感情どうこうじゃなくて技術的に上手下手がはっきり出てしまうし、難しいと思いました。しかもその半生をもう一回たどり直す。そのプレッシャーには、逆にちょっとわくわくした感じがあって、挑戦したいと思いました。オーディションで課題の脚本をいただいた時にできる気がしたというか。直感というか勘ではあったのですが、こういうふうに演じてみたいというものがあって、それをオーディションで試しました。

──シャワーを浴びる演技で、監督に強い印象を残したとお聞きしました。

田中:オーディションの課題で「目の見えない人の生活の一部を演じてください」とあったんです。何をしようかなと思って、料理作る? 歩く? なんだかな……とずっと悩んでいたんです。印象に残るからというわけじゃなくて、純粋にお風呂って完全に1人じゃないですか。なので、オーディション当日まで毎晩、目を閉じて耳栓をしてお風呂に入っていました。オーディション会場では、料理にしようかなとも思ったのですが、それまでもやってきていたので、「服を脱いでも大丈夫ですか」と許可を取って、そのまま全部やりました。

──先ほど、直感でできるような気がしたと仰いましたが、ご自身の中でアイデアが湧いてたんですね。

田中:そうですね。せりふの言い方とか、全く自分に似ている感じじゃないのに、うまくやれるという変な自信というか、直感みたいなのがすごくあって。だからオーディションも不安とかは特になくて。

田中偉登

──そういう自信は、役を演じる上では必要なものではないかと思いました。

田中:監督と話したときに、ちょっと抗ってくるというか、負けないぞ、という力強さみたいなものを感じてくださったみたいで。そういうところはもともと持っていた部分なのかなと思います。常に自信があるわけじゃないですが、自分が用意してきたものが100%だという心でいったので、それが智とうまくマッチしたところがあったかもしれないです。

──撮影が始まる前に、福島さんご本人とも何度かお会いになったそうですね。

田中:出演が決まって実際にお会いして、どんどん知ってくという感じでした。目が見えない、耳も聞こえない方とどうやってコミュニケーションを取ればいいんだろう、ちゃんと会話になるのかな、とかいろんな不安がありましたが、実際大学でお会いした時、目が見えないこと、耳が聞こえないことを感じさせないぐらい本当に明るくて、冗談を常に言って、周りの皆がけらけら笑っているんです。本当に前向きな方だったので、障害の部分を重く考え過ぎる必要はないんだ、普通に接していいんだと思って、すごく安心しました。

──その一方で本当に重いものを抱えて生きていらした方でもあります。映画では、そのつらさも描きつつ、智という人物像がとても豊かです。

田中:そうですね。そこは僕が智を演じる上ですごく大事にしていた部分です。とてつもなく重たい話でもあるんです。最後光が見えてくるけれど、途中はすごく苦しい場面が続く。でも福島さんご本人とお会いした時に、つらい話をしている時でもすごく笑顔で明るい声で話してくださって、その隙間にちょっと悲しい、苦しい感情が見えるぐらいでした。なので、逆にそういう部分をすごく丁寧にすくえたらなと思って、それを意識しました。そんなに苦しくないんだと表に出しつつ、自分の中で葛藤しているのが智なのかなと思ったので、そこはすごく大事にしました。

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僕にとっては“小雪さん”というより“お母ちゃん”の方がしっくりくるぐらい

──智と、小雪さんが演じたお母さんの関係が印象深かったです。小雪さんとの共演はいかがでしたか?

田中:昔からテレビや映画でずっと拝見してきた方なので、緊張といいますか、初めは「怖いのかな。厳しいのかな」と思ったりしたんですけど、全くそんなことなく、会った時からずっと本当のお母さんのように「体調どう?」「ご飯食べてるの?」と、本当にいろいろと気遣ってくださって。カメラが回っていないところでもいろいろと相談もできるくらい、信頼しています。撮影用のメイクを落とすにしても「そんなんじゃ駄目よ。ちゃんと落としなさい」という感じで、僕にとっては“小雪さん”というより“お母ちゃん”の方がしっくりくるぐらいです。

──私にとって、小雪さんはクールビューティーのイメージが強くて。

田中:僕もそうだったんですよ。そういう面もあるのかもしれないけど、(撮影を経た今となっては)僕にとっては“お母ちゃん”です。2年ぶりくらいに、さっき会ったんですけど、安心しました。

──資料を読むと、その小雪さんの意向などもあって、テストなしで本番を撮影することもあったそうですね。
田中偉登

田中:そうですね。橋の上でケーキを食べるシーンがそうです。智が食事制限や過度な運動など、極端な治療法を試していた時期です。台本を読んだ時から、ちょっとだけでも自分も体感できないかなと思っていました。目を閉じても聞こえないようなふりをしても、実際に見えるし聞こえているし、やっぱり想像でしかない。少しでも智と同じことができたらと思って、撮影が始まる前ぐらいから、なるべく糖質を取らないように制限して。あのケーキはそれ以来、初めて甘いもの食べたので、「テストなしで、なるべく一発でいきたいです」とお願いしました。

──それを聞いて納得しました。あのシーンはそれまで見せなかった智のつらさ、悲しさ、悔しさが溢れ出てきます。

田中:久しぶりに食べるケーキなんて甘くておいしいはずなのに、このケーキを食べてしまったことで少し諦めた感じがして。あのシーンは苦いというか、ちょっとつらいケーキだったなという思い出があります。ずっと隠していた部分が表に出てきたっていう感じだったので。

──映画では、福島さんとお母さんの強さもですが、お父さんやお兄さん2人の優しさ、愛情にも胸を打たれます。田中さん自身とご両親の関係をお聞きしてもいいですか?

田中:僕も3兄弟なんですよ。映画と同じ男3兄弟で、まさにそのままなんです。

──末っ子ですか?
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田中:僕は次男ですが、映画の中で両親がどうしても智にばかり目が行ってしまって、兄弟は我慢しているという状況は似ていたんです。僕、小さい時からずっと役者をやっていたので、母親が一緒に現場に付いていってくれて。兄と弟だって休日とかに行きたい場所もあったのに、2人とも何も言わずずっと僕の活動を応援してくれていました。父親も僕のことを、当然ですが、すごく大事にしてくれて、何か困ったことがあったら、自分より僕のことを優先していろいろ動いてくれたり。
ただ母親には対しては反抗期みたいなのがあって。僕は地元が大阪で、小学校6年生から中学校1年生ぐらいの時にすごく東京の生活が楽しかったんです。ドラマの撮影をして、大阪に帰ったら母親が「宿題やったの?」「東京どうだったの?」と話を聞いてくるのがうっとうしく感じてしまって。一時期は父親を通してしか話さなかった時期があったのですが、最近東京で1人暮らしをするようになって、母親ってすごいなと本当に感じて。やっと母の日に花とかを贈るようになりました。やっとです(笑)。何年かかったかという感じですけど。僕がずっと話さないでいた頃、母親も無理に話しかけたりしてこなかった。そういう優しさに、今からでも感謝を伝えたいと思ったし、この映画でさらに人とのつながりや人に支えられて生きているとすごく身に染みて感じたので、今はしょっちゅう家族に電話して、2時間近く話す時もあるんです。

──それはよかったです。福島さんは兵庫県の方なので、劇中の関西弁のせりふも自然でしたね。

田中:ありがたいというか、感情移入しやすくなっていました。最初は標準語でもいいという話でしたが、関西弁でやらせてくださいと監督にお願いしました。智はお母ちゃんに文句を言うシーンが多くて、そのやりとりを「漫才みたい」と友だちに言われる場面もあります。そういう部分は僕の関西の血というか(笑)。自然と出てくる「遅いな」みたいなアドリブに小雪さんもちゃんと応えてくれるので、そういうかけ合いができたのは関西弁のおかげでもありますね。

──確かに標準語でやると、響きが少しきつくなりますね。

田中:そうなんです。見ていて楽しくなるのが関西弁だし、それにちゃんと心許せている同士だからこそできるかけ合いでもあったので。

──まさに大阪の血のなせる技で。

田中:それはほんとに親に感謝ですね(笑)。

──先ほど小雪さんと2年ぶりに再会されたと聞きましたが、映画の撮影は2020年、まさにパンデミックが始まるタイミングで始まり、緊急事態宣言で一度中断されたそうですね。

田中:中断なんて初めての経験過ぎて、このまま撮り切れなかったらどうしようと思いましたし、点字を忘れないように勉強を続けましたが、既にある程度撮ってからの中断だったので、智は僕の中に染みついている感じはありました。そこで、おうち時間といわれるものをどう過ごそうかと考えた時に、やっぱり智をやっていたこともあって、言葉で何かものを伝えたいと思ったんです。耳が聞こえない、目が見えない、でも言葉がある。それで歌詞を書いたら友だちが曲を付けてくれて、僕は役者なので、ミュージックビデオみたいに一つ物語を作って。智みたいに表では笑って元気でいるけれど、実はいろいろ悩んでいたり、自分では抱えきれないことがある、そういう人のために大丈夫だよと伝えたいと思って。そういうものをずっと作っていました。
智から影響受けた部分は相当あります。諦めるんじゃなくて、この状態で自分にできることは何かと考えるのが智ですよね。僕は、コロナ禍で家から出られない、コミュニケーションが取れない中でどうするかと考えた。智からそういうことを教えてもらいました。

──その作品はどこかで聞いたりみたりできますか?

田中:僕のInstagramで過去にさかのぼっていただければあります。

──Instagramといえば、他にも絵を描いたり写真撮られたりしています。いろいろな表現の楽しさや魅力は、どういう点でしょうか?

田中:演技は、誰かが作った脚本の中で自分がどう掘り進めていくかという感じですが、絵とか音楽とか写真は、役と関係なく田中偉登が思うこと、やりたいことだけをすごく表現しているので、僕の中では全然違うもの。一方は好き勝手やっているけれど、演技は決まった中で自分がどうできるかを考える作業だと思っているので、そういう楽しさの違いはありますね。

田中偉登

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──演じるのは誰かの作った物語を表現していくことですね。

田中:そうです。最大限自分の魅力を引き出しつつ、どうやるか。もう一方は寝る前に思い付いたようなことを「じゃ、やろう」とやっているだけなので。

──何かを表現することが本当に好きなんですね。

田中:思い立ったらすぐ、みたいなところがあって。今思うことを形にしようとか、考えるのが好きなので。何もやらない時期もありますが、思い立ったら人を巻き込んででもやりたいなと思っています。

──これからも楽しみです。小学生の頃からお仕事されていますが、最初から俳優の仕事をやりたいと思って始められたのですか?

田中:きっかけはスカウトでしたが、7歳なので何も考えていなくて。東京に行ったらゲームを買ってもらえるとか、そんな目先のことばかりで(笑)。レッスンが本当に嫌いだったんです。ダンスとお芝居があって「どっちが好き」と聞かれた時に「絶対ダンス」と言うくらい、ほんとにお芝居が嫌いで、完全に流されたままずっとやってきて。変わったのは、『るろうに剣心』という大きな映画で弥彦という大事な役をやった時でした。撮影現場に「テレビで見ていた人がいっぱいいる!」と思って、そこから映画はこんな大人数で作るものなんだ、と興味を持ち始めて、普段着ないような衣装を着たり、しゃべることのないせりふをしゃべったり、そういうのがすごく楽しくて、そこからやっとお芝居したいという意志が芽生えました。10歳、11歳の頃でした。それまで3年の間はふわふわしていましたが、そこで楽しさを教えてもらいました。

──そこからお芝居に打ち込んだ。

田中:そうですね。打ち込むつもりだったんですけど、やっぱ遊びたい盛りでもあったから(笑)、いっぱい遊んでいたし、いろいろな人に怒られたり、助けてもらって生きてきました。今になってそう思いますが、その当時は全然考えてもいなかったです。たくさんの先輩の役者の方や監督がいらっしゃいますが、こういう大人になりたいなと考え始めて、この仕事をちゃんと極めるべきだと思って。一時期は絵を描きたかったり、いろいろなことをやりたかったんです。でも先輩の役者の方に「本当にやりたいのは何だ? 一個だけちゃんと極めろ」と言われて、そこでやっぱり役者だと思いました。まずはこれを極めることをそこで覚悟したというか。

──それは幾つぐらいの時ですか。

田中:15、16とかですかね。

──着々と形になってきている気がします。

田中:いや、まだまだです。

──そう、まだまだあるから余計楽しみでもあります。

田中:楽しみですね、これからどうなっていくのか。

──今回の作品に入る少し前に北米旅行されていましたが、海外のお仕事にも興味はありますか?

田中:(北米に行ったのは)すごく悶々としていた時期だったんです。19歳の終わりぐらいで、仕事はちゃんとあったのに、自分はこのままでいいんだろうか、どうすればいいのか、分からなくなってめそめそしていた時にマネジャーさんが「20歳になるし、海外行ってこい」みたいに言ってチケットをくれたんです。
海外で学びたいというよりは、自分の経験としてまずは1人で行ってみたいと思って。現地で映像の仕事をしている方からスタジオを見せてもらったり、いろいろ話を聞いた中で、海外では役者が自分でデモリール(過去の実績や演技を収めた映像資料)を撮ると知りました。日本ではその習慣はあまりないけれど、自分を表現しようと思って作ったのが、さっき話したミュージックビデオです。
海外から学ぶことはたくさんあったし、ゆくゆくは海外の作品などで世界的にいろいろな人にお芝居を見てもらえる機会が増えたらなと思います。そして、まずは『桜色の風が咲く』をたくさんの人に届けられたらなと思います。

(text:冨永由紀/photo:中村好伸)

[訂正のお知らせ]
本文で以下の通り訂正しました(38段落)。
訂正前:相当智から影響受けた部分はあります。
訂正後:智から影響を受けた部分は相当あります。

田中偉登
田中偉登
たなか・たけと

2000年1月24日生まれ、大阪府出身。幼少期からモデルとして活動後、『13歳のハローワーク』(12年)でドラマデビューし、同年『宇宙兄弟』で映画デビュー。主な映画出演作に『るろうに剣心』(12年)、『劇場版 仮面ライダー鎧武』(14年)、『アイスと雨音』(18年)、『孤狼の血』(18年)、『青い、森』(18年)、『カツベン!』(19年)、『のぼる小寺さん』(20年)、『朝が来る』(20年)、『ひらいて』(21年)など。ドラマは『相棒seaso15』(17 年)、『セトウツミ』(17年)、『無用庵隠居修行』シリーズ(17~22年)、連続テレビ小説『エール』(20年)、『アノニマス』(21年)、『イチケイのカラス』(21年)、『大豆田とわ子と三人の元夫』(21年)、連続テレビ小説『ちむどんどん』(22年)、『無用庵隠居修行6』(BS年)など。