アウシュヴィッツ強制収容所の隣で幸せに暮らす一家の姿、人間のグロテスクさに打ちのめされる衝撃作
アカデミー賞2部門受賞作『関心領域』
【週末シネマ】A24のロゴが出たところから、全てはもう始まっている。ただならぬ不安を掻き立てる不穏なオープニングで、映画に集中するしかない境地へと一気に連れていかれる。
今年3月、第96回アカデミー賞で最優秀国際長編映画賞と最優秀音響賞の2部門を受賞した『関心領域』は、第二次世界大戦中のアウシュヴィッツ強制収容所に隣接する家が主な舞台だ。
・夫を転落死させたのは妻なのか? “落下”と“失敗”の解剖を試みる秀逸な心理劇『落下の解剖学』
関心領域とは、ナチス政権がポーランド南部に設けたアウシュヴィッツ強制収容所と周辺40平方キロメートルの地域を表す言葉であり、収容所の隣には初代所長で最も長い期間務めたルドルフ・ヘスとその家族が暮らしていた。
恐ろしい音も雑音なのか、一家は邸宅で幸せを満喫
時は1943年だが、広い庭にプールもある家で過ごすルドルフと妻のヘートヴィヒと5人の子どもたちは絵に描いたような幸せに浸っている。家事は地元民に任せて、家族ぐるみの付き合いの同僚たちとピクニックやプールパーティーに興じている。家から数十秒もかからない、高い壁に隔たれた職場に向かう夫を見送ると、ヘートヴィヒは色とりどりの花が咲く庭の手入れに勤しむ。戦争中とは思えない、嘘のように平穏な日々だ。
だが、のどかな風景と釣り合わない、何かの装置が作動しているのが通低音として響き続けている。微かに叫び声や銃声が混じることさえあるが、ヘートヴィヒや子どもたち、使用人の耳には日常の雑音と化しているかのようだ。
壁の向こうを映像では描かなかったジョナサン・グレイザー監督
スカーレット・ヨハンソン主演の前作『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(2014年)から9年ぶりとなる長編映画を手がけたジョナサン・グレイザー監督はユダヤ系イギリス人だ。原作のマーティン・エイミスの同名小説ではフィクション化されていた人物名を実名に戻し、ヘス一家に焦点を絞って自ら脚色、ドイツ人のキャストで台詞もドイツ語だ。
グレイザーは壁の向こうにいる人々は一切映像で描かず、建物や炎に照らされる夜の闇、連行されてきた人々を乗せた列車の煙突から出る白煙を見せる。ルドルフ以外のヘス家の人々が見ていたのも、おそらく同じ光景だろう。
知ろうとしないわけでも、知らないふりをするのでもなく
ヘートヴィヒたちは壁の向こうで何が起きているかを認識しつつ、自分たちの日常の一部として消化し、以前近所に住んでいた人が「中にいるのよ」とカジュアルな会話のネタにさえする。夫は収容者から取り上げた品々をお土産に持ち帰り、ヘートヴィヒは使用人たちにも振舞う。風が強く吹き始めれば窓を閉める。見たいものだけを見て、欲しいものを当たり前のように取る。
知ろうとしないのでもなく、知らないふりをするのでもない。満ち足りた生活の裏側、生活を支えているものの実態を知っている。その音や匂いも感じている上で、ありのまま認めている。凡庸な人間のグロテスクさに打ちのめされる。
“幸福”に囚われる妻をザンドラ・ヒュラーが演じる
やがて現実は、勤勉でいかに効率よく人命を奪うかを考え続けるルドルフや、呼び寄せたヘートヴィヒの母親、幼い子どもたちの精神にじわじわと影響を与えていくが、ただ1人、動じないヘートヴィヒを演じるのは、第96回アカデミー賞の脚本賞受賞作『落下の解剖学』で主演を務めたザンドラ・ヒュラーだ。
空疎な“幸福”を物質的に表現することに囚われるヘートヴィヒは夫が異動を命じられると、理想のわが家を離れることに抵抗し、単身赴任を促す。アウシュヴィッツに留まりたい一心の彼女の行動は狂気じみているが、それは第二次世界大戦の顛末やホロコーストを知る2024年に生きる我々の感覚だ。
「無関心」と片付けることを許さない映画
ハイテクレンズと6K解像度のデジタルカメラで撮った自然光の映像は全てが異様なほどクリアで生々しい。理想を演じる者の本性が剥き出しになり、そこに重なる音の1つ1つが隠されたものを想像させる。晴天の庭で遊ぶ子どもたちの笑い声は壁の向こうにも届いていただろう。オスカー音響賞に輝いたこの映画は音を見て、見えないものを聞く映画だ。ミカ・レヴィによる音楽も呪いのように強烈に響く。
関心領域にいる人間の無関心、と他人事のように片づけることをこの映画は許さない。グレイザーは何の緩衝材も置かず、あの時と現在を並列させる。これは今、私たちの生きる世界で起きていることへの無関心がやがて導く結果についての警告だ。(文:冨永由紀/映画ライター)
『関心領域』は、2024年5月24日より全国公開中。
[訂正のお知らせ]記事の初掲載時、妻の役名のカナ表記が間違っていました。正しい表記「ヘートヴィヒ」に訂正し、お詫び申し上げます。
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