『なれのはて』粂田剛監督インタビュー

日本では生きていけない男たちがフィリピンの貧困地区で生きる理由とは?

#ドキュメンタリー#なれのはて#粂田剛

なれのはて

企画が立ち消えた後も「困窮邦人」を7年に渡り取材

粂田剛監督
『なれのはて』
2021年12月18日より全国順次公開
(C)有象無象プロダクション

フィリピンの貧困地区で生きる日本人の男たちを7年追い続けたドキュメンタリー映画『なれのはて』が、12月18日より公開される。

マニラの貧困地区、路地の奥にひっそりと住む高齢の日本人男性たち。「困窮邦人」と呼ばれる彼らは、まわりの人の助けを借りながら、僅かな日銭を稼ぎ、細々と毎日を過ごしている。警察官、暴力団員、証券会社員、トラック運転手…かつては日本で職に就き、家族がいるのにも関わらず、何らかの理由で帰国しないまま、そこで人生の最後となるであろう日々を送っている。

彼の地で寄る辺なく暮らす4人の老人男性。半身が不自由になり、近隣の人々の助けを借りてリハビリする男、連れ添った現地妻とささやかながら仲睦まじい生活を送る男、便所掃除をして軒下に居候している男、最も稼げないジープの呼び込みでフィリピンの家族を支える男…。カメラは、彼らの日常、そしてそのまわりの人々の姿を淡々と捉えていく。

本作の監督を務めたのは、『20世紀ノスタルジア』(97年)、『ストロベリーショートケイクス』(06年)などの助監督を務めた粂田剛。当初はテレビのドキュメンタリー番組の企画として始まり、企画が立ち消えになったが、その後も取材を続けた粂田監督に、制作の裏側について語ってもらった。

へび女、人間ポンプ、タコ娘、ロクロ首…最後の見世物小屋を捉えたドキュメンタリー

[動画]マニラ貧困地区で“困窮邦人”と呼ばれる日本人男性ら…『なれのはて』予告編

──まず本作を作ることになったきっかけを教えてください。

監督:最初のきっかけは『日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」』(水谷竹秀著/2011年)を読んだこと。これはスゴい、こういう人たちを映像にしたい、とすぐに思いました。テレビのドキュメンタリー番組の企画として取材を始めたものの、なかなか苦戦して…それでも諦めずに何度もフィリピンを訪れているうちに、この題材は自分が納得するまで撮影して映画にしたい、と考えるようになりました。

──どうやって彼らを探したのでしょうか?カメラを回すことになるまでの経緯を教えてください。
なれのはて

監督:「取材したい」と思う人に出会うまでとても時間がかかりました。最初はマニラ新聞の記者さんや現地のロケコーディネーター会社の社長さんなどから、マニラ近郊で暮らす日本人で取材対象になるような人はいないか、またはそんな人を知っていそうな人はいないか、と訊いて、紹介された人に会いに行き、またその人から誰か紹介されて……というのを繰り返し、とにかくフィリピン在住の日本人に数多く会いました。
例えば「マニラ動物園で日本人のホームレスを見た」と聞けばマニラ動物園に行き、「ベイウォーク(夕日の名所、ホームレスのねぐらでもある)で寝ているホームレスの中に日本人がいた」と聞けばベイウォークに行き……そのほとんどが空振りでしたが、それを続けるうちに、自分が興味を惹かれる人に出会っていったのです。彼らに“出演を”と依頼しても当初は発表の目処も立っておらず、「テレビになるか映画になるか、まだ全然分からないけど、とにかく撮影したい」と正直に話して、「別に良いよ」と言ってくれた人にカメラを向けて。もちろん中には、撮影されるのを嫌がる人もいました。落ちぶれたところを他人に見られたくない、とか、マニラにいることがバレたら殺される、なんて事情のある人は撮影できませんよね。
なれのはて2012年からマニラに行き始めて、2014年〜2016年頃には行くたびに6〜7人撮影して、毎日いろんな人に会いに行ってカメラを回して、すごく充実していました。自分だけが知っているスゴい役者がいて、自分だけが撮影できるセットがあって、という気分で、フィリピンにいる間ずっと高揚していたことを覚えています。その時点でも、発表するアテはどこにもなかったのですが……。

──フィリピンで出会った人々の中で、彼ら4人を中心に据えようと思ったのはどのような理由からでしょうか。

監督:はじめは主人公が6人いて、5時間の映画でした。それを何人かの知り合いに見てもらったところ、皆口を揃えて「この長さでは劇場公開できない、2時間以内にしないと」と言うのです。お前はワン・ビンでもタル・ヴェーラでもラヴ・ディアスでもないんだからと。
そこで素直に2時間の作品を目指すことにしたのですが、そうなると6人では入りきらず、元の職業、暮らしぶり、撮影した映像の展開、などを考えてこの4人に絞りました。
ちなみに『なれのはて』からこぼれた2人のエピソードを中心に、新しく『ベイウォーク』(*)という作品も作りました。諦めが悪いので(笑)。
*『ベイウォーク』は「東京ドキュメンタリー映画祭2021」(21年12月11日〜17日開催)にて上映(https://tdff-neoneo.com/lineup/)

──結果、7年間も追い続けることになりましたが、そこまで時間をかけて撮影を続けたモチベーションはどこにあったのでしょうか。

監督:フィリピンを舞台にした制作に一度失敗しているため、今回は意地でも諦めてたまるか、と思っていたことがひとつ。それから、「こんな日本人がこんな所でこんな暮らしをしていることをみんなに知ってほしい」と言って撮影を許可してくれた人が途中で亡くなって…これで挫折して作品にできなかったら申し訳ない、と感じたこと。さらには、途中からフィリピンで取材するのがやたらと面白くなっていった、ということもあると思います。

──日本で生きていけない彼らがフィリピンでなら生きていけるのは何故だと考えますか?加えて何が日本とフィリピンで違うと思いますか?
なれのはて

監督:日本での生活に息苦しさを感じている人にとって、フィリピンの貧困層の世界は肩の力を抜いて生きることができる場所なんだと思いました。ホントにメチャクチャだしお金は無いし生活自体は大変なんだけど、皆、自由に、自分の欲望に忠実に生きていて、「オレも好きに生きていいんだ」と思えるというか。
もう一つは、どんな人間でも受け入れる、というフィリピン人のホスピタリティ。お金がある人からは何とかして掠め取ろうとするけれど、相手が貧乏だとわかると、「お前も金無いのか、じゃあこの弁当半分食え」というふうに急に親切になる、あの感じはとても不思議だけど、温かい。日本人は他人を見るときにその人の過去と紐づけて見るけれど、フィリピンの人たちは今のその人しか見ない。『なれのはて』の登場人物を取り巻くフィリピンの人たちと話しているうちに、そう感じました。
短絡的・近視眼的と言われればそうなのですが(笑)、変な色眼鏡は無い。それがワケありの人間にとっては居心地がいいのかなと思います。マニラの路地の雰囲気が、昭和30年代くらいの日本に似ている、と先輩たちから感想をもらいましたが、日本はいつの間にこんなに不寛容な社会になったのか。しばらくフィリピンにいて日本に戻ってくると、整然とした町並みと静けさが本当に不気味でした。それでまたフィリピンに行くと、妙に懐かしいというか、ホッとするというか……。だから自分も『なれのはて』予備軍だと、はっきり自覚しています(笑)。

粂田剛
粂田剛
くめた・つよし

1969年愛知県生まれ。東京都立大学人文学部社会学科文化人類学専攻卒業。フリーの助監督とし『20世紀ノスタルジア』(97年)、『ストロベリーショートケイクス』(06年)『どこに行くの?』(08年)などに参加。その一方で、企業PR映像や教育映像、テレビ番組のディレクターとしても仕事を続ける。主な演出作品に『フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿 第三夜 クローン人間の恐怖』(NHKBSプレミアム)、『珍盤アワー 関根勤の聴くメンタリー!』(BSフジテレビ)『ザ・ノンフィクション シフォンケーキを売るふたり』(フジテレビ)などがある。