【平成の映画業界を振り返る4】レンタルビデオが急速普及、“レンタル発の名作”相次ぐ

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90年代はレンタルビデオが急速に普及した時期だ。2000年からはビデオカセットがDVDに置き換わり、2000年代後半までレンタル人気が続く。

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映像ソフトメーカーで作る日本映像ソフト協会のデータでレンタルビデオ市場の推移を見てみると、レンタル店向けのメーカー売り上げは、93年の878億円、94年の882億円を底にして、95年に963億円と回復。96年から2008年まで1000億円前後で推移する。2000年からはDVDが登場しビデオカセットは減っていくものの、総売り上げは1000億円前後をキープする(最高は04年の1144億円、06年でビデオカセットの売り上げは終了)。

08年にブルーレイが登場するものの、DVDにとって代わることはなく、09年以降は総売り上げが減少。08年は997億円だったが、年々減少を続け、18年は348億円と約3分の1の規模にまで縮小した。

レンタルビデオの普及は、94年『ショーシャンクの空に』のように映画館で観客の入りが悪くてもレンタルで人気となる“レンタル発の名作”が生まれるようになる。94年『パルプ・フィクション』、95年『レオン』も映画公開時よりもその後のレンタルで人気が広がった。またレンタルは『Xファイル』(93年〜02年)や『24-TWENTY FOUR-』(01年〜10年)のような米国ドラマの人気作も生み出した。

さらに、東映のVシネマをはじめとするレンタルビデオ専用の映画(オリジナルビデオ)が製作。竹内力が『ミナミの帝王』シリーズ、哀川翔が『修羅がゆく』シリーズなどをきっかけに人気俳優となり、三池崇史監督がオリジナルビデオを数多く監督して劇場映画でも売れっ子監督となった。

レンタルビデオの登場は映画製作も変えた。登場前までは、製作側は劇場収入とテレビ権収入のみだったが、ビデオ権収入が加わった。ビデオ権の獲得を狙いビデオメーカーが映画製作の出資に乗り出し、製作委員会方式が定着した。製作委員会方式とは映画会社、テレビ局、出版社、広告代理店、ビデオメーカーなどが製作費を出し合う方式で、製作のリスクを低くすると共に、各社が宣伝に協力することで映画をヒットしやすくした。(文:相良智弘/フリーライター)

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相良智弘(さがら・ともひろ)
日経BP社、カルチュア・コンビニエンス・クラブを経て、1997年の創刊時より「日経エンタテインメント!」の映画担当に。2010年からフリー。