『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル』関口祐加監督インタビュー

母の認知症と向き合う『毎アル』監督、死の選択肢を探す旅に…

#関口祐加

小学生の時に体験した大好きな叔父の死が原点

認知症の母との自宅介護生活を飾ることなく映像に記録し、温かな笑いを散りばめつつ認知症ケアのあり方を探り続ける関口祐加監督。シリーズ3作目となる『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル』が 2018年7月14日より公開となる。

今回、関口監督は股関節の手術で入院した際に1人のガン患者と出会い、その最期に触れたことから、「死」について強く考え始める……。制作にあたって監督自身が感じたことについて、詳しく話を聞いた。

──今作は「死」がテーマですが、そもそも関口監督の中で「死」はどういう位置づけだったのでしょうか?

関口:子どもの頃からずっと、心のどこかで気にはなっていましたね。死だけは、唯一平等なものだと思うんです。天皇陛下であろうと、ホームレスの人であろうと、死は必ず訪れます。そこにちょっと魅了されていたのかもしれません。
 最初に目にした死は、大好きだった叔父の死でした。叔父は船乗りで、海外に行ってはチーズとかワインとか、普段、見慣れないものをたくさん持って帰ってきてくれました。英語がペラペラで、「いつかあんな風に私も英語を話したい」って子ども心に憧れの存在だったのです。そんな叔父は、38歳の時に病気で亡くなりました。お見舞いにも行ったし、最期は遺体も見ました。私は小学生でしたが、あんなに輝いていた人も死なないといけないなんて……とショックでした。いわゆる人生の不条理ですよね。

──そうした背景があって、今回の作品テーマにたどり着いたのですね。

関口:映画のテーマについては、実はとても煮詰まっていました。前作『毎日がアルツハイマー2』(14年)で「パーソン・センタード・ケア」(認知症をもつ人を「人」として尊重、理解し、ケアを行おうとする認知症ケアの考え方)という、認知症における唯一無二のケアの概念にたどり着いたので、次はハウツーを撮るしかないのかなと思っていたんです。ところが、ここ数年間で死を強く意識させられる出来事が次々に起きました。
 まず、同じ年に母が脳の虚血症性発作で倒れ、緊急搬送されたんです。それが1年ちょっとの間に4回も重なりました。そうこうしているうちに自分の股関節も痛み出し、手術が必要になってしまった。私にとって「自分の不幸は蜜の味」ですから、手術中の映像は絶対に撮影して映画に入れようと思いましたね(笑)。
 右の股関節の手術を終えてしばらくすると、今度は左の股関節も手術が必要になりました。その時、映画にも登場した山田トシ子さんと運命的な出会いをしたのです。山田さんはガンで入院していたのですが、映画を撮ってもいいよって言ってくれました。自分が衰えていく時に撮らせてくれるのはなかなかできないことだと思い、背筋が伸びる思いでした。

──山田さんはお元気そうにしているところから、病状が進行して緩和ケア病院に移ったところ、最期を間近にしたところまで映画に登場しています。人がどのようにして死に向かっていくかが、克明に映し出されていると感じました。

関口:映画の持つ力ですよね。映画は、何年、何ヵ月という時間をぎゅっと凝縮できるので。最終的に、山田さんは緩和ケア病院で息を引き取りました。ご遺族は「眠りながら亡くなりました」とおっしゃっていましたが、今ひとつ理解できなかったんです。緩和ケアを受けて亡くなるって、どういうことなのか。彼女の死をきっかけに、死に方というものと真正面から向き合うようになりました。
 死についてあれこれ考え始め、尊厳死とか平穏死、自然死といった聞き心地のいい言葉にたくさん遭遇しました。でも、どれも実態がよくわからない。延命治療をせずに死を迎えることなのでしょうけれど、本当に死んでいく人は苦しくないのかな、と。こうした疑問の答えを知りたくて、「死のオプション(選択肢)を探す旅」に出たのです。

──『毎日がアルツハイマー2』では認知症介護最先端のイギリスを訪れましたが、今回はイギリスと、スイスにも足を運んでいます。スイスを訪れた理由は何でしょう。

『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル』
(C)2018 NY GALS FILMS

関口:スイスでは、「自死幇助(じしほうじょ)クリニック」のエリカ・プライツェック先生に、安楽死のことでも自死幇助のことでもなく「緩和ケアに問題はありますか?」と聞きました。私の中で1番引っかかっていたのは、山田さんのことがあったので緩和ケアだったんですね。エリカ先生は、とても正直に答えてくれました。緩和ケアは、だんだん呼吸が苦しくなることへの対処は難しく、痛みや死への恐怖を和らげることも難しい。そうなったら、「ターミナル・セデーション(終末期の苦痛緩和を目的にした沈静)をするのよ」と。患者さんを薬で人工的にこん睡状態にし、そのまま息を引き取る方法ですね。初めて聞いて、やっと山田さんの死の意味がスイスで理解できたんです。
 山田さんのようにガンだったら頭がクリアですから、やっぱり死への恐怖があるわけです。彼女は夜眠るのを怖がっていて、入眠剤を処方されました。すると、今度は起きられなくなってさらに不安が増していった。痛みについても、イギリスのヒューゴ・デ・ウァール先生(認知症ケア・アカデミー施設長)は「これ以上苦しむことができない病状がある」と言っています。痛みや苦しみ、恐怖から解放されるために、ターミナル・セデーションはとても大事なオプションなんだと思いました。同時に尊厳死や平穏死、自然死などの死に方は、どこかで苦しくなることもあるのではないかと思いました。

──日本では終末期医療をめぐる法整備ができておらず、ターミナル・セデーションの可否は今もベールに覆われています。どんな最期を迎えるかは、医師次第というケースが多いようですが……。

関口:生死の問題において、医師は圧倒的に強い立場にいるわけですが、患者さんや家族の思いが理解されないまま、医療方針を決められてしまうこともあると思います。不治の病でどんなに患者が苦しんでいても、家族が「もう眠らせてあげてほしい」と願っても、ターミナル・セデーションをしてもらえないというのは、本当に人道的なのかどうか。大いに疑問を持ち始めています。たしかに、医師としてのモラルは大切だとは思いますが、目の前の患者さんがもうこれ以上苦しめない状態の時には、本人や家族の気持ちを聞き入れられるバランス感覚を持ってほしいですね。同時に、家族の側も、きちんと話し合いができなければならない。どういう最期を迎えるか、もっとオープンに話して、本人、家族、医師で準備できるといいな、と考えています。

──海外では、そうした問題はクリアになっているのでしょうか。

関口:オーストラリアでは普通にターミナル・セデーションが行われていますが、最期は家族がキュー出しをするんですよ。実は、今回の編集スタッフ、デニース・ハスレムさんも実際に経験しています。お母さんが回復の見込みのない病気で、どうしようもなく苦しんでいた。最後は医師に「眠らせて逝かせてあげて下さい」とキュー出しをしたそうです。
家族の決定によって本当に最期になってしまいますが「お別れの時」が明確になりますから、介護をする側にとって納得するというか……日本ではそれがほとんどないですから、介護が終わったあとに「これでよかったのかな……」と後悔する人が多いのではないでしょうか。
 よく「終わりなき介護」と言われますが、そんなことはありません。永遠に続く介護なんてない。むしろ、終わりを見据えて「本人にとっていい死」を迎えられるようにすることが、悔いのない介護になるのではないでしょうか。「終わりのない介護から、終わりからの介護へ」というキャッチフレーズを提案したいですね。

──意外と語られていない視点ですね。作品では、「自死幇助」や「安楽死」というオプションについて言及されています。

関口:安楽死は、医師が薬を使って絶命させる方法です。アメリカの一部の州やオランダ、ルクセンブルクなどで合法化されていますよね。日本でも、橋田壽賀子さんが『安楽死で死なせて下さい』という本を出して話題になりました。でも、私、安楽死にはまったく興味がないんですよ。最期の時に医師に自分の命の全権を委ねるのは、死んでいく権利の譲渡だと思うんです。私は、自分の死について知りたいし、自分で決めたい。そう思っています。

──ヒューゴ先生によると、安楽死が合法化されているオランダでも、ほとんどの人はそれを選択しないそうですね。しかし、安楽死というオプションがあること自体に意味があると言います。

関口:オプションがあるからこそ、自分自身で「安楽死をしない」という選択ができる。なるほど、と思いました。ただ、日本にはそのオプションもありません。私自身も60代になり、自分の最期について自分できちんと考えて決定できることが大事だと、ますます強く感じるようになりました。ですから、スイスの自死幇助にはとても興味があります。自死幇助は、医師は薬の準備をしますが、その薬を使って命を終わらせるのは自分自身です。エリカ先生のクリニックでは、いくつかの条件のもとで合法的に自死幇助が行われています。不治の病であること、頭がクリアであること。それに、必ず家族と話し合って了解を得ていることです。そうして、家族が見送る中、本人が点滴のボタンを押すのです。

──関口監督は、スイスで自死幇助の模擬体験をなさいましたが、いかがでしたか?

関口:もう自分でも意外なくらいビクビクしました(笑)。自死幇助で使うベッドに横たわり、点滴に薬の代わりの水を入れて、実際にスイッチを押したのですが、そのスイッチが固かったんですよ。自分の最期を決めるスイッチですから、間違って押すなんてことがあってはいけない。ちょっと力を入れないと押せないようになっていました。でも、ベッドは快適だし、非常に穏やかな雰囲気の部屋でした。「ここなら本当に眠るように逝けるだろうな」と思いました。キッチンやお風呂、洗濯機もそろっていて、家族と一緒に1週間ぐらい生活できるようになっているんです。本当に自死幇助をするのかじっくり話し合って、間際にやっぱりやめるとなってもいい。
 実は私は、エリカ先生のライフサークルのメンバーになっており、自死幇助の権利を得ています。息子には、「母ちゃんがこうなった時には自死幇助をさせてほしい」と伝えていて、今のところスイスまで連れていってくれると言っていますよ。

どういう死が望ましいか、オープンに話し合っておくことを提案したい
『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル』
(C)2018 NY GALS FILMS

──家族でオープンに話し合い、意思統一できるといいですね。ただ、日本では死をタブー視する傾向があると言われます。若い頃は自分と関係ないと思って話題にのぼりませんし、年を取ってくるとリアル過ぎて話したくないでしょうし。

関口:そうですね。「病院で死ぬか、家で死ぬか」というように、“ハコモノ”の話は、まだ話題になりますが、それだけじゃないと私は思うんです。だって、在宅がいいと思っても病状によっては入院が必要ですし、在宅介護を受けていても土壇場で救急搬送されることだってあります。
 最近聞いた話ですが、ある男性は、くも膜下出血で倒れ、奥さんが在宅介護をしていました。夫婦ともに家で最期を迎えることを希望し、在宅医にもそう伝え、来てもらっていた。でも、その在宅医は、看取りという時に慌てて救急車を呼んでしまったそうです。結局、男性は体にたくさん管を入れられて、苦しみながら亡くなっていった。まあ、必要な医療処置だったのかもしれませんが、奥さんはとても後悔していると聞きました。
 他にも、ステージ4の進行がんを患っていた男性の話を聞きました。ご本人は治る見込みのないことを理解していて、奥さんのそばで、自宅で亡くなりたいと願っていました。だんだんと衰弱し食事を自ら拒否するようなったそうです。ご自分で死の選択の意志表示をしたんですね。ところが、彼の周囲の専門職の人たちは、バイタル数値を気にして、とにかく食べさせようとさせた。本当はもう徐々に水分を控えて、看取りの体制を整えたほうがよさそうな時に、プロでもなかなかそこに至れないことがあるんですね。
 医学の発達によって、人間は永遠に生きそうな錯覚を持たされているのかも知れません。とにかく生かし続けて、死と向き合わないことが1つの文化のようになっている気がします。でも、命に終わりがあることは、紛れもない事実。きちんと終わりのことを考えましょうよ。どこで亡くなりたいのかというハコモノの問題だけにせずに、自分の命にどうお別れを告げたいのか。家族がそこにどう向き合い、お互いに納得するのかを考えることはとても重要だと考えています。

──スイスの自死幇助は、頭がクリアであることが条件の1つになっています。認知症のある人が希望通りの死に方をするのは難しいでしょうか。

監督:基本的に自死幇助は、認知症になったら厳しいです。頭がクリアであることが条件の1つですから。一般的には、認知症などで本人の意思がわからなければ、本人を1番よく知っている人たちと話し合うことですよね。死んでいく時も本人が主役で、その人の思いをなるべく遂げてあげる。そうした「死に方のパーソン・センタード・ケア」が大切だとつくづく思います。きっと、どんな死に方をしたいかも十人十色なはずです。

──作品中でお母さんのひろこさんは、「突然死がいい」と死生観を語っていますね。

監督:日ごろからそう言っているんですよ。突然死へのこだわりは強いんです。というのも、自分の両親が突然死でしたから。祖父は伯父とけんかして、わあっと家を飛び出したところで、心筋梗塞を起こして亡くなりました。祖母はだいぶ認知症が進んでいて、ある日、おなかいっぱい食べてウトウトしながら横になって、そのまま逝っちゃったんです。私の父はある日、トイレで倒れて突然死です。だから母の中に「自分も突然死がいい。病院はイヤ。」という気持ちが強くあるのでしょう。もちろん、病院で亡くなった親族もいますが、本人も家族も、あまり納得のいく死ではなかったのでは、と思っています。母の姉の伯母は、脳溢血で倒れて入院しました。植物状態になって3ヵ月くらいたった頃、突然、医師や看護師たちが病室にやって来て、家族に詳しい説明もないまま体に入っていた管を全部抜いていった。それから1週間くらいして亡くなりました。本人に決定権はないし、家族も何をされたのかわからないままの最期でした。これは90年代のことですが、それにしてもあまりにも医療者中心の最期の死に方です。
 その点、母が脳の虚血症発作で倒れた時の病院の対応は、今はよかったと思っているんです。救急搬送されましたが、点滴を打っただけで帰されました。最初は心配で「1泊くらい入院したほうがいいんじゃないでしょうか?」と聞いたのですが、病院は受け入れてくれませんでした。

──必要以上の医療をしなかったわけですね。

監督:そう。母は直腸ヘルニア持ちですが、肛門科クリニックでも手術をしないことになりました。医師は「手術自体は簡単です。しかし、全身麻酔をするので、認知症のお母さんの脳にどういう影響が出るかわからないから、手術はしません。」とはっきり言ってくれました。ある意味で医療から見放されたわけですが、逆に、そう言ってくれた医師はいい医師なんじゃないかって、最近思うようになりました。
 母は、手術をしなくても痛みはありせんが、失禁が多くなります。しかし、みんな年を取ると膝が痛いとか、血糖値が高いとか何かしらの不具合が出てきますよね。命って、それらと付き合いながら枯れていくものじゃないか。そんな風に考えるようになったのも、友人が亡くなったことや、私自身が還暦を迎えたことが大きいと思います。だから逆説的ですが、ある程度年をとったら病を持つこと、機能が衰えていくことは、実は素晴らしい変化なんじゃないかって思います。老いは、神様が与えてくれた命の終わりに近づかせてくれるもの。「年を取ってもいつまでも元気で」じゃなくて、万人に訪れる自分の老いを受け入れる方向に考え方が大きく変わりました。

──映画には、託老所「あんき」(愛媛県松山市)も登場します。利用者さんたちは、まるで自宅のようにリラックスしてくつろいでいます。

監督:あんきは普通のデイサービスと違って、ドアや窓に鍵を全くかけません。天気のいい日は掃き出しの窓を開けっ放しにして、お年寄りが心地よい風を受けて、うたた寝したりしています。その場面を海外の人に見せたら、みんな大絶賛してくれましたね。世界中どこを探してもドアや窓の鍵をかけない施設なんて、ないからです。
 あんきの経営者の中矢暁美さんは、ありとあらゆる創意工夫をされていて、認知症の人でも住み慣れた環境に感じられて過ごせるようにしています。事務室は玄関に面していて、常にスタッフの人たちは、そちらを向いて仕事をしている。玄関を出たところには、小さな玉砂利が敷き詰められています。建物の外に出たとしても、すぐには遠くに行けない工夫です。それでも帰ろうとする人は、無理に引き留めないんですね。あんきのスタッフは「では送っていきますね」と車を玄関に寄せ、乗ってもらいます。3分ぐらいしたら「あら、そろそろお茶の時間ですよ」とか言って本人が納得して降車するような声かけをします。こういうのが、認知症ケアの高度なスキルなんですよね。私は年を取ったら、あんきのようなところで暮したい。
 ただ、確かに自分の老いは受け入れられるようになりましたが、母の命の責任を負うことについては、いつまでたっても慣れませんね。だって介護をする私は、母の生殺与奪の権を握る圧倒的な立場にいるわけですから。

──介護する側にのしかかる責任の重さですね。

監督:母は実は、この映画が完成した後にも脳の虚血症で倒れたんですよ。もう5回目です。介護には終わりがないどころか、一寸先は闇。だからこそ、終わりから逆算して、どういう死が望ましいか、オープンに話し合っておくことを提案したいのです。

──さて、今回のタイトルは『毎日がアルツハイマー ザ・ファイナル』ですが、本当に最後なのでしょうか?

監督:もう死を語ってしまいましたからね(笑)。もちろん、これからも母の介護は続いていきますし、パーソン・センタード・ケアのハウツーを伝えたい気持ちはありますが、その辺りは(YouTubeなど)動画でアップすればいい内容なのかなと思っています。
 映画を作るって、本当に大変なんですよ。今作品は、前作から4年がかりで完成しました。ちょうど3部作になることですし、いったんフィナーレにしようと思っています。でも実は、最後の1本を作りたいと思っているんです。それは私が死ぬ時。“関口祐加はどういう死のオプションを選んだのか”という映画は作りたいですね。映像は撮っておくので、私の死後、スタッフが、みんなでまとめてくれるといいなと思っています。なるべく明るく逝きたいものですが、果たしてどうなるか。私にとっても未知数なので、ドキュメンタリー映画の真骨頂として面白いんではないでしょうか(笑)。ひとつ言えることは、後悔なく死んでいくには、今この生きている時を精いっぱい生きる、ということです。ここははずせない重要な点ですよね。

関口祐加
関口祐加
せきぐち・ゆか

1957年生まれ。オーストラリアで映画監督となり、ニューギニア戦線を女性の視点から描いたドキュメンタリー『戦場の女たち』(89年)で監督デビュー(本名・関口典子の名前でクレジット)。その後、自身のダイエット体験を赤裸々に明かしたドキュメンタリー『THE ダイエット!』(09年)を監督し、注目を集める。2010年、母の介護のために29年間暮らしたオーストラリアから帰国。その介護生活をまとめたドキュメンタリー『毎日がアルツハイマー』(12年)を公開し話題に。14年には続編『毎日がアルツハイマー2 〜関口監督、イギリスへ行く編』を公開。