『消えた声が、その名を呼ぶ』ファティ・アキン監督インタビュー

世界3大映画祭制覇の若き巨匠が語る人間の本質

#ファティ・アキン

どんな話題であろうとも、禁じられていると気になって、もっと知りたくなる

世界3大国際映画祭のすべてで主要賞を受賞した若き巨匠ファティ・アキン監督。その最新作は、ヨーロッパ近代史最大のタブーとも言うべきアルメニア人虐殺事件だ。犠牲者の数は100万人とも150万人とも言われ、ヒトラーがユダヤ人虐殺の手本にしたとされている。

1915年、オスマン・トルコでごく平凡に暮らしていたアルメニア人の鍛冶職人が突然強制連行され、ナイフでのどをかききられ声を失いながらも、生き別れた娘を探して世界中を走り抜ける姿が描かれていく。本作で、善と悪の間で揺らぐ人間の本質に迫った監督に話しを聞いた。

──自らのルーツのトルコで最大のタブーと言われるアルメニア人のジェノサイド(大量虐殺)を新作のテーマにしたのはなぜですか。

ファティ・アキン監督(右)

監督:私がテーマを選んだのではなく、テーマが私を選んだのです。両親がトルコ人なので興味を持ち、タブーであるという事実により興味を覚えました。どんな話題であろうとも、禁じられていると気になって、もっと知りたくなります。まだ対処されていない、折り合いがついていないことがたくさん存在するのに気づきました。

──トルコ人にとって、この事件を扱うのが困難なのはどうしてだと思いますか?

監督:もし、全国民が歴史家や政治家によって騙され、何世代にもわたり「そんなことは起こらなかった」と嘘をつかれていたら、国民はその事件を胸の内に閉じ込めるだけになります。それが、多くのトルコ人に起きていることです。両親、教科書、そして新聞はその出来事を違う側面から語ることも報じることもしませんでした。だから彼らを非難することはできません。しかし、歴史は我々のもので、人々のものです。フラント・ディンク(※1)が殺された7年前のイスタンブールでジェノサイドについてパブで話をすれば、隣の席の人に絡まれて「なに言ってんだよ?」なんて言われたでしょうけど、今では声を潜ませなくても話すことができるようになりました。
(※1 :アルメニア系トルコ人の著名ジャーナリスト。アルメニア人大量殺害に関する記事や発言で、国内の民族主義者から強い反発を受け、国家侮辱罪で司法当局に起訴されていた。一方で、フランス国内での「アルメニア人虐殺」の否定を有罪とする法律の成立に反対していた)

──取材はどのようにして行いましたか?

監督:100冊くらい本を読みました。キューバに移住したアルメニア人の日記も読みました。孤児の記録やアレッポにあった売春宿の物語も読みました。初めてアルメニアを訪れ、首都のエレヴァンにある虐殺記念館に行き、館長にも会いました。たくさんのアルメニア人が北アメリカに渡るためにキューバに移住したと彼に聞きました。そのことを知らないアルメニア人もたくさんいるんです! だから、それも映画に組み込みました。

──本作のテーマはジェノサイドですか?

監督:2人の娘を探すために世界を旅する父親の話です。西部劇であり、父親はアメリカにたどり着くまで西へと向かいます。移民と移住についての物語です。物語の背景にはこのジェノサイドがありますが、ジェノサイドについての物語ではありません。私は政治家ではないので、映画で政治的なメッセージを発したいわけではありません。未解決の衝撃的な歴史的事件を取り上げて、物語にまとめました。『消えた声が、その名を呼ぶ』では、善と悪との境界線はつねに明解ではありません。たとえば、アルメニア人の主人公ナザレットは被害者から加害者になります。彼は、トルコ人の思いやりと慈悲のみによって生き延びるのです。

われわれ一人ひとりの中に悪が存在すると確信していた
『消えた声が、その名を呼ぶ』
(C)Gordon Muhle/ bombero international

──複数の国にまたがる撮影はいかがでしたか。

監督:これまでの映画の中で、特に物理的な点において、製作するのが一番困難な作品となりました。この映画の中心となるテーマは壮大な旅なのです。各ロケーションの独自性を捉えるのが重要だと考えていました。都市と砂漠、都市と海、海とジャングル、ジャングルと平原、それぞれの境界のことです。こういった“自然の映画”が好きなのです。観客に実際にこれらのロケーションにいるような感覚を持って欲しいと思っています。砂嵐がスクリーンを通り過ぎるとき、それがデジタルではなく本当に感じられるように。

──そのこだわりは視覚的コンセプトにどのように影響しましたか?

監督:初期の頃、カメラマンのライナー・クラウスマンと共に、全体のコンセプトを“距離”という言葉で定義しました。それから映像に威厳を与えたかったので、“古典的なストーリーテリング”を採用しました。決してふざけることなく、過度に芸術的にもしないようにしました。ロケーション自体に、風や気候や緯度の相違がありましたから。私たちはテレンス・マリックの『天国の日々』を研究し、できるだけ太陽がカメラの後ろにくるようにしました。現場に到着するのが遅くなる時があり、太陽のバックライトと戦わねばならないこともありました。

──『シンドラーのリスト』や『戦場のピアニスト』のアラン・スタースキーが美術監督をつとめていますね。

監督:アランは真の巨匠でした。私の師であり、たくさんのことを学びました。木を撮影するときの照明や、色がいかに構造を作り出せるか、本当の深さの作り方を教えてくれました。予算がなかったので、セットをすべては建てられませんでした。建設費が高いので“できるだけ小さく”建てられるようなロケーションをそれぞれの国で探しました。アランは偉大な監督たちと仕事をしてきたので、360度全方位のセットを作るのに慣れていましたが、少ない予算のために、何ヵ月も前に、ショットの始まりと終わりの場所を正確にアランに伝えました。町のすべてのブロックを飾るのではなく、3棟の建物の表面だけを作るために。アランのセットを実際に目にすると、どこまでも続いているように見えました。

『消えた声が、その名を呼ぶ』撮影中の様子

──「愛、死、悪についての三部作」の結論となる映画ですが、“悪”を見つけるのは困難でしたか?

監督:われわれ一人ひとりの中に悪が存在すると確信していました。『愛より強く』で描いたように、人間には愛が可能です。『そして、私たちは愛に帰る』では死が変容の引き金となります。『消えた声が、その名を呼ぶ』は自らの歴史に向き合うことへの恐怖を扱っています。テーマが違いますし、トルコ系ドイツ人の問題ではないので、違う作品だと思われるかもしれませんが、どの映画も実はお互いに地続きの作品なのです。『愛より強く』におけるジャイトと『そして、私たちは愛に帰る』のネジャットと、今回のナザレットは似ていると思います。彼らは3兄弟のようで、周りの世界を注意深く観察し、目標に執着しています。

──アルメニア系アメリカ人脚本家のマルディク・マーティン(『レイジング・ブル』、『ニューヨーク ニューヨーク』)の協力を得ていますね。映画における彼の役割は?

監督:誰かにアメリカ的な脚本に直して欲しいと思っていました。マーティン・スコセッシが、彼と連絡を取ってくれました。彼にはダイアローグの修正だけをお願いしたのですが、「それだけでは不十分だ」と言われました。マルディクはニューヨーク大学でスコセッシと共に、アルメニア系アメリカ人のヘイグ・P・マヌギアンに師事していました。彼はたくさんのシーンを微調整、あるいは削除し、我々の予算への負担を軽くしてくれました。映画のラストもすっかり書き換えました。

──マーティン・スコセッシ監督にもアドバイスを仰いだそうですね。

監督:彼は映画を2回見ました。アルメニア人がノースダコタに移住したという、多くのアメリカ人がまったく知らなかったアメリカの歴史を掘り下げたのを気に入ってくれました。2回目はみんなで、ニューヨークで見ました。マルディク・マーティンとスコセッシは数年ぶりに試写で再会したのです。

ファティ・アキン
ファティ・アキン
FATIH AKIN

1973年8月25日、トルコからの移民の両親のもと、ドイツ・ハンブルクに生まれる。ハンブルク造形芸術大学で学んだ後。95年、監督デビュー作となる短編『SENSIN…YOU‘RE THE ONE!』を発表しハンブルク国際短編映画祭で観客賞を受賞。初の長編映画となった『SHORT SHARP SHOCK』(98年)ではロカルノ映画祭の銅豹賞、アドルフ・グリム賞、バヴァリア映画賞など全部で9つの賞を獲得した。偽装結婚から生まれる愛を情熱的に描いた『愛より強く』(06年)では、第54回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞。監督6作目となる『クロッシング・ザ・ブリッジ〜サウンド・オブ・イスタンブール〜』(05)では、トルコ版『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』とも言うべき音楽ドキュメンタリーに挑み、高い評価を得た。『そして、私たちは愛に帰る』(08年)で第60回カンヌ国際映画祭最優秀脚本賞と全キリスト協会賞を受賞。『ソウル・キッチン』(11年)では、第66回ヴェネチア国際映画祭審査員特別賞を受賞し、30代にして、ベルリン、カンヌ、ヴェネチアの3大映画祭で主要賞受賞を果たす。